メーホンソン(その3)

第二次世界大戦で日本軍はビルマ戦線強化のためにタイのチェンマイ~パーイ~メーホンソン~クンユアム間軍用道路を建設した。その際、現地住民を強制労働で駆り出し、過酷な労働で多くの死者を出したと言われている。また、1945年(終戦の年)にはインパール作戦の失敗による敗走兵がこの軍用道路を使って、ビルマ~チェンマイへと撤退して来た。英国軍他の空襲や栄養失調、マラリア、アメーバ赤痢等の疫病で屍累々の惨憺たる光景が今に伝えられている。この道路はタイ人の死者も含めてタイの白骨街道と呼ばれている。
f0116707_12532435.jpgこの地に警察署長として赴任したチューチャーイ・チョムタワット氏(2007年4月に旭日双光章を受勲)が現地の住民が日本軍の遺品を数多く保管しているのを見て、これらは単なる物々交換の品ではなく、色々な思いが込められたものと言う考え方から、それらの寄付を募り、1996年に博物館を開設した。2006年に改装され、現在は”第二次世界大戦博物館”として公開されている。
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タイ北部では今も遺骨収集が続けられているが、戦後60年以上が経過したことまた各師団が入りっ乱れての敗走であったことから、故人の特定は困難を極めているとのこと。
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博物館入口には井上朝義さん(インパール作戦に従軍、ご健在ならば89歳)による慰霊碑が建てられていた。
この道路の沿線では、あちこちに慰霊碑が建立されている。本年、逝去された藤田松吉さん(ランプーン(チェンマイの南)、インパール作戦に従軍、90歳)は千数百体の遺骨を収集し、ご自宅の庭に慰霊碑を作り、同胞の霊を弔っておられた。メーホンソン県やチェンマイ県の寺院に遺族や友人で或いは県人会としての慰霊碑が数多く建てられている。
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敗走日本兵はクンユアムの土地で、現地の人たちから宿を与えられ、食物を与えられ、負傷兵は看病をしてもらいということから、タイ人と日本兵の間に愛と絆が育まれたと言われている。
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ゲオばあさんとフクダ上等兵の悲恋物語は今も続いている。日本軍の残虐ぶりを宣伝している戦場に架ける橋で有名なカンチャナブリとは全く異なる関係が築かれていたことが解る。
戦後60年を経た現在、平和を享受している我々は、これらの現実を見て、現地の人々の言葉”Forgive but not forget”を胸に刻み込まねばならない。
12月8日(第二次世界大戦 開戦の日)のNHK番組で戦場で兵士が身に着けていた寄せ書きの国旗(ほとんどは武運長久と書かれている)が米国で売買されているという悲しい報告があった。出征する兵士に生きて帰れとの願いを込めた寄せ書きを親族の元に返そうという運動があるが、戦後60年を過ぎると情報不足で、故人の元へは戻れないのが現実なのだそうである。年金の話と同じように厚生労働省は、何らかの対策は打てないものであろうか?今まで、労力を注ぎ込まなかった付を払うためにも、大量動員して、遺品を遺族の元へ返してほしいものである
第二次世界大戦での戦死者は210万人、未だに115万柱の遺骨が未収集である。
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by kentakajp | 2009-12-05 13:14 | タイ北部