チェンマイ旧市街の紹介
ランナータイ王国のメーンライ王がスコータイ王国のラムカムヘーン王、パヤオ王国のガムムアン王の協力を得て、1296年にチェンライから遷都して、チェンマイの地にノッパブリー・シー・ナコン・ピン・チェン・マイ(ピン河畔ノ美しい新都)を建設した。ピン河はタイ北部に水源を持ち、メナーム・チャオプラヤー(チャオプラヤー河)の最大支流である。その後、260年余り栄えたが、ビルマとアユタヤとの戦争が絶えず、最後はビルマの侵攻を受けて滅亡した。216年間のビルマ支配の後に、トンブリ王朝のタクシン王がビルマを駆逐し、都を復活した。19世紀後半にタイの地方行政組織に編入された。このような古い歴史を有していることから、タイの第二の都と言われている。
チェンマイの旧市街は一辺が約1.5kmの堀と城壁に囲まれたこじんまりした街である。昔の街づくりは周囲に堀を巡らして、外敵を防ぐのが基本であったようである。アンコール遺跡(大半が12世紀後半に建設された)も周囲に堀兼灌漑用のため池を巡らしてある。スコータイ遺跡では複数の堀があったやに伺っている。チェンマイでは城壁はかなり崩れてしまったが、各コーナー(1~4)の城壁と5か所の門(5~9)は保存状態が良い。各コーナーからお堀の外側の眺めを紹介しつつ、お堀を一周してみることにする。
①HUA HIN コーナーから東の方角の眺め
②SI PHUM コーナーから南の方角の眺め
③KATAM コーナーから西の方角の眺め
遠くドイステープが見える。
④KUHUANG コーナー
KUHUANG コーナーから北の方角の眺め
お堀の外側は時計まわり、内側は反時計まわりの一方通行になっている。信号機が殆ど無く、歩行者の横断は大変危険である。
5か所の門は以下のt歩おりである。
⑤CHANG PHUAK 門
城壁の北の方角の真ん中に位置し、1296年にメーンライ王が建設した当時は、HUA(頭)wiang(都市)と呼ばれ、都の頭の方角を表していた。SAE MUANG MA王(1385~1401)の頃に、門外に白象のモニュメントが建てられた。以降この門をチャーン プアック(白象)門と呼ぶようになったそうである。
⑥THA PHAE 門
説明によると、最初のの名前は近くにチェンルアック村があったことから、チェンルアック門と呼ばれた。ターペーとは筏の陸揚げ場という意味で、外側の土塁の門(二重の門)の呼称であった。19世紀後半には外ターペー門と内ターペー門と呼ばれるようになった。やがて、外側の門は解体され、内側の門を単にターペー門と呼ぶようになったとのこと。現在の広場の外側に門があったと思われるが、ここがなぜ筏の陸揚げ場と呼ばれたのか、どなたかご存知の方、ご教示頂くとありがたいのですが。
⑦Chiang Mai 門
城壁の南にある二つの門の東側にある門である。説明によると、ラムプーン等南方への出入り門で、関所のような役目があったのではと思われる。
⑧Saen Pung 門
城壁の南側の西側にあるもう一つの門で、名前の由来は不明なるも、19世紀後半にはこの名前が使われていたとのこと。チェンマイの人々は、死者を市内から火葬場に送る門として使用したとされる。
⑨Suan Dok 門
城壁の西側に位置する門である。保存状態が良く、名前(フラワーガーデン)のとおり、花が植えられたきれいな門である。しかし、説明の掲示板は備えられていない。この門を出て西進するとスワンドク病院、チェンマイ大学美術館、工学部等を右に見て、チェンマイ大学の裏門に至る。道の左側は多くの学生達が下宿している学生街である。
by kentakajp | 2009-12-20 17:20 | チェンマイ